ケータイで写真を撮ること

街の小さな企画展。
アジアを旅した人の写真展を観てきた。
無名の、貧乏旅行で主にタイ、インドを旅した人で、
写真はほぼ全てをケータイのカメラで撮影していた。
デジカメを買う資金があれば航空券を買うほうを優先していたし、
何で撮るかということよりも、何を撮るかを重視していたらしい。
写真はたぶんハガキサイズ。
画像は思ってたより粗くない。


たくさんの写真が展示されていた。
建物の写真、風景、人物。
一番多かったのが子どもの笑顔。
ご本人は
「子どものアップばかりの写真集なんてぜんぜんいいとは思わない」
というようなことをおっしゃっていたけど、
確かに子どもの写真は、
(誰でも簡単に撮影できるわりに)
表情に惹きつけられる印象的なものが撮れる。
自分も子どもの写真ばかり撮って良い人ぶりたくないと思っていたわりには
気がつけば
海外の魅力的な子ども達の笑顔にカメラを向けてしまっていた。
だからきっとみんな思うことは一緒なんじゃないかとも思う。


たくさんの写真を観ていて、
自分なりに思ったのは、
ケータイで人物を撮影するのはやめとこう。ということだった。
自分の旅のあいだも思っていたことだったが、
海外で写真を撮ろうと現地の人にカメラを向けたとき、
笑顔で「撮ってもいいよ」という空気を出す人もいれば、
重い表情で拒否する人もいるし、
お金を要求してくる人もいる。
いろいろな人がいる。
いろいろな時間がある。
写真というのはその一瞬を正直に記録する。


その記録を撮影者はどうするか。
旅で偶然出会った人が被写体なら、
後日その人に写真を渡すことは難しい場合もある。
渡せても渡せなくても、
自分が撮影した写真は「自分の写真」として自分の手元に半永久的に残る。
それをどうするかは自分の自由だ。


それって、結構重い行為じゃないか。
誰かの一瞬を、自分が個人的なものとして保有し続けるってのは。
例えば偶然日本に来た異国の旅人が(どういう形ででも)
自分の写真を撮って、
その写真の行方は今後その人の裁量に一切任されるとしたら。
自分の知らないところで外国の雑誌に載ったり、ブログに掲載されたり。
できれば人に見せて欲しくはないけど、
どうせそうなるんならせめて実物よりマシに写してほしい。


自分でもそう思うくらいなんだ。
他人の一瞬を記録するんだから、
もうちょっと誠実にやりたいってのが
自分の考えだ。
撮られるほうだって
ケータイを宙にかざしてカシャってのじゃお気楽すぎる。
そんなの記録の道具ではあるかもしれないけど、
撮影の道具ではないじゃないか、そんなふうに感じる。
自分の眼からも相手からも距離がある道具じゃないか。
例えば一眼レフのカメラは撮影するときファインダーを覗く。
そうすると撮影をするときは被写体のことしか見えなくなる。
両手で構えるからカメラ以外のものは持てなくなる。
撮影という行為は同じでも、
「持って」撮るケータイと「構えて」撮るカメラは違う。
当たり前かもしれないけど、そういうこと。
誠実にやるってことは、
そのくらいの制約を引き受けることなんじゃないか。
ちょっとでも良く写るように、
ちょっとでも良い性能のカメラを使いたいじゃないか。
そんなふうに思ったんだ。