「ヱヴァンゲリヲン劇場版:破」

公開二日目。昨日は「劇場版:序」を見て予習した。


(注 筆者の知識は10年以上前にアニメ版を見、半年前に貞本版コミックスを読んだ程度のレベル。
 深い内容にはできるだけ触れずに文章を進めるものとする。)


「序」は本当に序盤であり(アスカ登場以前=ヤシマ作戦まで)、アニメ版と重複している部分が多く、ある意味で安心して観ていることが出来たのだが「破」は違った。
出だしから映画版オリジナルの映像で「なんか違うアニメの予告なのかな?」と思ってしまいそうなくらい。
新キャラ=眼鏡の女の子パイロットも出てきたし。加治さんはうさんくささを感じさせつつも第三新東京市にさっさと馴染んでしまうし。
どんどんアニメと離れて映画の世界が出来ていく。
それが気に入らないわけじゃない。
アスカの登場シーンの鮮やかさ、格好良さは素晴らしかった。飛び蹴りがすげーダイナミック!
映像の迫力だって凄い。
使徒と戦うたびに街が容赦なく破壊され、クルマが吹き飛び、民家が血で真っ赤に染まる。地形だって変わる。
死ぬはずのキャラが死なない運命に変わったのも嬉しい。


設定を読んでて気付いたのは、ミサトさんは28歳くらいの設定だってこと。
ハチロク世代なのだった。
自分が初めてエヴァを見たときはシンジ君に近い年齢で、もちろんシンジ君目線で見ていたのだが、気付けば自分の立ち位置は加治さんに近い微妙なところ。組織の下で使われてる人たちの苦悩が分かるようになった。ゼーレと碇指令に振り回されてりゃそりゃミサトさんだって居酒屋でやけ酒飲みたくもなるよ。


脱線。
強く感じたのは、パイロット達は、もっというと登場人物たちはみんな孤独を感じてて、何かにつかまって、何かと繋がっていたいんだという事。
エヴァに乗ることで自分の存在証明をしたり、シトと戦うことで自分の生きる意味を見出したりする。敵や運命や上司や父親は呆れるほど不条理で、誰もどうして現状がこうなっているのか、自分がどう生きるべきかなんてことは教えてくれないんだ。自分の存在理由は自分で見つけるしか、気付くしかない。
十代の頃には気付かなかったそんなことが、
映画では痛いほど強調されてて、痛くて辛くて、
そのぶんだけ繋がるための手を差し伸べてくれる相手がいるっていうことが幸せなんだと教えてくれる。
手を伸ばせとおしえてくれる。