文体の獲得

今日は文章が堅い。

文体(ぶんたい)とは、文章・散文のスタイルのこと。

      ウィキペディアより


いま自分は日本語で考え、日本語で文章を書いている。
(それ以外はできない)
こうして書きつらねている文章は、
色々な人の文章を読んだり新聞に目を通したり話し言葉を混ぜたりしながら
構築された、
どこかで見聞きした日本語のごった煮のような文体でできている。
この文体でなら、こうして日記を書いているように、
思った事を思ったように書くことくらいなら時間はかかるけどできる。
まあ、見たまんま読んだまんまの状態だ。


しかし、仕事の上ではこの文体は使えない。
仕事は(自分が今やっている仕事はとりわけ)公的なものなので、
日本語の公的な文体で読み書きがなされている。
法律っぽいと言うか、いわゆる「行政文書」というものに係わっている。
それはどういうものかというと、
「私」が全く入らない文体の事だ。
主語としての「私」はもちろん、「でも」「すごく」といった普段使いの言葉も、「思われる」「想定される」といった感情が混ざりそうな言葉も含まれてはいない。
客観性を意識して、隙をできるだけ排除した文体。


例えば、「行政文書」に関する管理規定。

第2条 法務省における行政文書の管理に関し法律及びこれに基づく命令の規定により行政文書の分類,作成,保存,廃棄その他の行政文書の管理に関する事項について特別の定めが設けられている場合にあっては,当該事項については,当該法律及びこれに基づく命令の定めるところによるほか,この規程の定めるところによる。


要するに、法務省が文書の管理の仕方を決めているときにはそれに従ってください。とそれだけのことなんだが。
こうやって句点でグダグダ文章を繋げられるとうんざりする。
正直苦手で、読むことが得意じゃないから書くことももちろん全然ダメだ。



自分が日本語を相手にこんなに苦戦するなんてちょっと前まで思ってもみなかったな。
文体を読んで理解するっていうことは、その文章における考え方を理解するってことに繋がっている。つまり上のような文書を読み込めない自分は、そこに流れる考え方や理屈の流れを全く理解できていないってこと。
言い換えればこの文体で文章を読めるようになり、書けるようになったとき、この文章での考え方を体に取り入れることができたってことになる。

とにかくいまのところは毎日この文体と格闘中だ。